朝ドラ『風、薫る』迫る戦争の影…多江の決断と、歴史を変えた「篤志看護婦」たちの知られざる史実 (4/7ページ)
八重達が担当したのは、広島陸軍予備病院の第三分院でした。そこは戦争の負傷兵ばかりではなく、伝染病専用の隔離病棟も含まれていました(看護婦4名が伝染病に罹って死亡しています)。(同志社女子大学「篤志看護婦としての八重」)
実際、日清戦争では負傷兵よりも、病死者のほうが多かったといわれています。
広島ではその前年(明治26年)から赤痢が大流行しており、軍内で感染が拡大すれば、戦地での戦闘や士気、軍の集団生活に大きな影響を与える恐れがあるため、速やかに感染を抑える必要があった。……(中略)……
戦争が始まると、戦地からの帰還者を介して持ち込まれたコレラが市街地を中心に流行し、宇品町では一時警察による交通遮断が実施されるほどであった。(広島市 Web展示会「疫禍来襲!! 近代以降の伝染病と広島の歴史」)
実際に起こった、大規模な人数の赤痢やコレラの発生。
伝染病患者の看護・負傷兵の看護・防疫など、自分たちが感染しないように細心の注意を払いながら行うのは、どれだけ肉体的にも精神的にも大変だったことか。想像を絶するものがあります。
篤志看護婦の活躍ぶりが広まり看護婦希望者が増える
日清戦争における、日赤看護婦の活躍ぶりは、当時のマスコミが大いに讃えて「従軍看護婦」として宣伝し、たちまち国民にその存在を認知されることになりました。