『豊臣兄弟!』千利休(吉岡秀隆)ついに登場!なぜ信長や秀吉は「茶の湯」にここまで傾倒したのか? (2/8ページ)

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ここで注意したいのは、この時代のお茶が「薬」としての性格を強く持っていたことです。そのため、栄西が帰国後に記した日本最古の茶書とされる書物も、『喫茶養生記』と名付けられました。

栄西(Wikipedia)

その後、お茶は禅宗寺院を中心に普及し、しだいに嗜好飲料としても飲まれるようになっていきます。

また、栄西から茶の種を譲り受け、京都・栂尾の高山寺で茶を栽培したと伝えられるのが、華厳宗の僧・明恵上人です。栂尾で栽培された茶は「本茶」と呼ばれるようになり、その後、茶の栽培は伊賀・伊勢・駿河・武蔵などの各地へと広がっていきました。

こうした動きのなか、南北朝時代になると、茶の産地を飲み当てる「闘茶(とうちゃ)」が盛んに行われるようになります。室町時代には、華やかな座敷でお茶を中心とした宴会も流行し、お茶は次第に娯楽性の強いものへと変化していきました。

遊びの茶から「侘び茶」へ

遊興娯楽としてのお茶が流行する一方で、禅の思想などから、世俗を離れた簡素な生き方を理想とする茶の湯も生まれました。

その先駆者とされるのが、室町時代の茶人・村田珠光(むらたじゅこう)です。

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