『豊臣兄弟!』千利休(吉岡秀隆)ついに登場!なぜ信長や秀吉は「茶の湯」にここまで傾倒したのか? (5/8ページ)
秀吉の実弟・豊臣秀長(仲野太賀)からは、「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言われたと伝えられるほどです。つまり、利休は単なる茶人ではなく、天下人の側近として政治的な役割を担うまでになっていたのです。
しかし1591年(天正19年)、秀吉の逆鱗に触れた利休は堺への蟄居を命じられ、やがて京都・聚楽第で切腹して果てました。利休切腹の理由については、茶道具や大徳寺山門の問題、秀吉との政治的な対立など、さまざまな説が唱えられており、現在も決着をみていません。
ただ、利休が追求した茶の湯の美意識と、秀吉が求めた権力の美学との間に、なんらかの緊張関係があったことは容易に想像できるでしょう。
その象徴ともいえるのが、利休が生涯をかけて追求した茶室でした。利休は茶室の草庵化を進め、それまで基準とされていた四畳半よりもさらに狭い、三畳、二畳、さらには一畳半ほどの茶室まで生み出していきます。
そこでは、秀吉の金の茶室のような豪華さや広大な空間とは正反対の、狭く静かな空間だからこそ生まれる緊張感と精神性が追求されました。