【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (5/15ページ)

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片桐且元(かたぎり かつもと)

片桐且元(画像:Wikipedia)

弘治2年(1556年)生~慶長20年(1615年)5月28日没

近江の国人領主であった片桐直貞(なおさだ)の長男として生まれ、はじめは浅井長政(中島歩)に仕えています。

天正元年(1573年)に浅井家が滅亡すると、長浜城主となった羽柴秀吉に仕えました。正確な時期は不明ですが、中国攻めには従軍していたと考えられます。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは他の七本槍とともに一番槍の武功を認められ、恩賞として摂津国に3千石を与えられました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦にも従軍し、他の七本槍と同様に秀吉の馬廻衆としてその本陣を警護しています。

天正14年(1586年)には従五位下・市正(いちのかみ)と叙せられ、豊臣姓を賜わったほか、京都方広寺の作事奉行を務めました。

これ以降は奉行職として実務能力を発揮し、インフラ整備や物資調達などの兵站任務を担当しています。天正15年(1587年)の九州征伐では軍船の調達を担当しました。

一見地味ではあるものの、補給なくして勝利はおろか、継戦すらままなりません。秀吉の天下一統は、彼ら実務官僚の功績によって支えられたと言えるでしょう。

天正18年(1590年)に小田原北条氏が降伏した後は、小田原城の接収や鶴岡八幡宮の修繕手配、また検地などを実施しました。

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