【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (3/15ページ)
そして慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が勃発。家康率いる東軍と、三成率いる西軍が、それぞれ「豊臣家をお守りするため」として兵を挙げたのです。
清正が家康率いる東軍に与したことはよく知られていますが、当時の書状からは西軍に与するべきか去就を迷っていたとも言われます。結局は与した東軍が勝利したため、清正は引き続き豊臣政権の重鎮として豊臣秀頼(ひでより。秀吉遺児)に忠義を尽くしました。
その後も豊臣・徳川両家の両立を図るべく尽力していましたが、慶長16年(1611年)6月24日に50歳で世を去ります。
その死因は脳溢血とする説が有力ながら、梅毒や癩病(ハンセン病)、または家康による毒殺なども噂されたそうです。
福島正則(ふくしま まさのり)
生没:永禄4年(1561年)生~寛永元年(1624年)7月13日没
桶屋または桶大工の長男として誕生し、秀吉の従兄弟であったことから秀吉の小姓となりました。
初陣は18歳となった天正6年(1578年)、播磨三木城攻めに従軍しています。天正10年(1582年)の山崎合戦では勝竜寺城攻めで武功を立て、また天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは一番槍を果たし、一番首として拝郷家嘉(はいごう いえよし)を討ち取りました。
そのため他の「七本槍」よりも高く評価され、5千石の知行を賜わっています(他の6人は3千石でした)。