【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (7/15ページ)

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平野長泰(ひらの ながやす)

平野長泰(画像:Wikipedia)

永禄2年(1559年)生~寛永5年(1628年)5月7日没

秀吉の家臣であった平野長治(ながはる)の三男として、堀田道悦女との間に誕生しました。元服して通称は権平(ごんぺい/ごんべい)、諱をはじめ平野長勝としています。

21歳となった長泰は天正7年(1579年)に父の紹介で秀吉へ仕官し、賤ヶ岳の戦いでは他の七本槍と共に一番槍を果たして河内国に3千石を賜わりました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦では敵に突撃して首級を上げ、二重堀砦では敵を撃退する武功を立てています。

それからしばらく経った文禄4年(1595年)に2千石を加増されて5千石となりましたが、これが長泰にとって生涯所領のピークでした。

慶長3年(1598年)に豊臣姓を賜わり、従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)に叙せられています。

同年8月に秀吉が世を去ると、五大老の筆頭格であった徳川家康に従い、慶長5年(1600年)の会津征伐そして関ヶ原の合戦でも家康に従いました。

しかし徳川秀忠(家康嫡男)率いる別動隊に所属していたため、決戦に遅参して間に合わず、これと言った武功を立てずじまいとなっています。

戦後はそのまま秀忠に仕え、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、長泰は「人質にとられている嫡男の長勝を救出するため、大坂へ行かせてほしい」と直訴しました。

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