【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (10/15ページ)
永禄6年(1563年)生~寛永8年(1631年)9月12日没
元は松平元康(徳川家康)に仕えていた加藤教明(のりあき)の長男として誕生します。
父は永禄6年(1563)の三河一向一揆で元康に叛いたため、放浪を余儀なくされました。やがて近江国へ流れ着いた父子は、長浜城主となった秀吉に仕えたと言われます。
やがて元服して通称を孫六(まごろく)、諱ははじめ加藤茂勝(しげかつ)後に嘉明と改名しました。
はじめ羽柴秀勝(秀吉の養子で織田信長五男)の小姓として近侍しますが、天正4年(1576年)の播磨攻めに際して、居ても立ってもいられなかった嘉明は勝手に従軍してしまいます。
これを知った北政所(浜辺美波)は激怒し「主君(秀勝)より先に初陣を遂げようとするとは何事か」と叱責しました。
そしてすぐにも嘉明を追放するよう訴えますが、秀吉はかえってその心意気を賞賛し、直臣に取り立てたそうです。
かくして天正6年(1578年)の別所討伐で初陣を飾り、備中須久毛山(すくもやま。岡山県井原市)の合戦で首級2つを上げる武功を立てました。
その後も山崎合戦(天正10・1582年)に賤ヶ岳の戦い(天正11・1583年)と連戦し、賤ヶ岳では一番槍の武功によって3千石を賜わります。
