【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (8/15ページ)

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あるいは「豊臣家に味方したい」と直訴するも許されず、江戸留守居役として豊臣家の滅亡を知らされることになったのです。

豊臣滅亡後は江戸幕府の旗本として仕え、第3代将軍・徳川家光まで仕えました。そして寛永5年(1628年)5月7日に70歳で世を去ります。

七本槍の中で、唯一大名(1万石以上)になれなかった武将ですが、その9代子孫・平野長裕(ながひろ)は明治時代に入って田原本藩(たわらもとはん。奈良県田原本町)を立てました。

糟屋武則(かすや たけのり)

糟屋武則(画像:Wikipedia)

永禄5年(1562年)生~没年不詳

播磨国の出身ですが、父親については諸説あります。加古川城主の糟屋氏に養子入りし、天正5年(1577年)に播磨攻め中の秀吉へ仕官しました。

小寺官兵衛(倉悠貴)の推挙で秀吉の小姓頭を務め、三木合戦(別所長治討伐)に従軍します。初陣を飾った直後に三木城包囲網の一翼を担うなど、その才覚を早くから認められていました。

やがて天正7年(1579年)に兄の糟屋朝正(ともまさ)が討死したため家督を継ぎ、秀吉の中国攻めに貢献します。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると秀吉の中国大返しに従い、山崎合戦にも従軍しました。同年10月15日に京都大徳寺で執り行われた信長の葬儀では、秀吉家臣として参列しています。

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