【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路 (6/15ページ)
続く奥州仕置においても検地やトラブル解決などに尽力しています。
文禄の役(第一次朝鮮征伐)では渡海して兵站任務を担当したほか、晋州城の合戦などに従軍しました。
帰国後は伏見城の普請や国内の検地(文禄検地)、そして文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震の復興事業そして大坂の都市開発などで活躍したそうです。
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、遺児である豊臣秀頼の補佐役として豊臣政権の維持に尽力しました。
そんな且元の献身ぶりは淀君(茶々)から厚く信頼され「秀頼の父代わりになってほしい」「命ある限り恩義を忘れることはない」と書状に記されるほどだったそうです。
徐々に徳川家康の脅威が豊臣家を脅かす中、且元は淀君・秀頼母子を支えるため奔走するのでした。
しかし懸命の努力もむなしく豊臣家の衰運をとどめることはできず、ついに慶長19年(1614年)10月1日に且元は大坂城から退去を余儀なくされます。
家康と豊臣家の板挟みとなりながら、且元は徳川軍に加勢し、ついには豊臣家の滅亡を見届けることとなったのでした。
そして豊臣家に殉ずるが如く、かねて患っていた咳病をこじらせ、慶長20年(1615年)5月28日に60歳で世を去ったのです。