『風、薫る』の舞台にいたもう一人のヒロイン――幕末のジャンヌ・ダルク、新島八重がみせた銃から看護への転身 (4/8ページ)
欧米のレディーファートが身に付いていた襄と男勝りの八重は仲のいい夫婦でしたが、夫よりも先に車に降りる八重の姿を見て、「悪妻」などと陰口をいう人もいたそうです。
男尊女卑の風潮が強い明治時代、男性のレディーファースト仕草を腹立たしく思う人もいたのでしょう。けれども、夫の襄はそんな時代に堂々と振る舞う妻を尊敬し「ハンサムウーマン」と呼んでいたと伝わります。
ところが、明治23年(1890)1月、最愛の新島襄は病のため急逝。
八重は「何か社会に貢献できることは」と考えて、同年4月26日、日本赤十字社の正社員になり“看護”の道を歩むことになりました。
戦いを経験し、傷付いた人々を数多くその目で見てきた経験も影響したのかもしれません。
そして、明治27年(1894)7月25日から日清戦争が始まりました。
八重は「日本赤十字社篤志看護婦人会」京都市会の看護取締として、同年の11月ごろから翌年の春頃まで、40人前後の看護婦を率いて広島で4ヶ月の救護活動にあたったそうです。
ただし当時の八重は、正規の看護婦の資格を有していません。そのため副取締に高木ハルと山室サタが任命されています。高木ハルは看護婦の資格を有していたので、実質的な看護業務は彼女主導で行われたようです。