【豊臣兄弟!】徳川四天王、猛将・本多忠勝(夏生大湖)が“最期に残した言葉”と家康を救った3つの危機 (6/8ページ)
忠勝は対岸に渡ると、渡船の船底を槍の石突で突き破り、追手が船を利用するのを防いだと伝えられています。
戦場の猛将から藩政における名君へ
このような働きから、忠勝は1590年(天正18年)、家康の関東移封にともない、上総国大多喜10万石を与えられました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでも、忠勝は戦場を駆け、多くの首級を挙げて東軍の勝利に貢献します。
また、毛利家の吉川広家をはじめとする諸大名に、井伊直政と連署した書状を送るなど、東軍方につける工作にも活躍しました。
桑名城蟠龍櫓/歌川広重『東海道五十三次・桑名』(Wikipedia)
この功績などによって、翌1601年(慶長6年)、忠勝は伊勢桑名10万石へ移封されます。
桑名は古くから「十楽の津」と称された商業都市でした。忠勝は桑名に入ると、城郭の整備や城下町の町割りを進め、東海道の宿場町として発展する基礎を築きました。
桑名は東海道と伊勢湾を結ぶ交通の要衝であり、尾張・美濃・近江方面にも通じる重要な地点でした。その桑名に忠勝を置いたことには、家康の明確な意図があったと考えられます。