【豊臣兄弟!】清兵衛(伊藤健太郎)&盤覚(坂口涼太郎)は実在?史実で探る「秀長vs興福寺」激突の裏側 (4/7ページ)
年貢は「神仏への捧げ物(仏物・神物)」
田の広さと年貢が合わなくなった理由
中世の寺社領では、土地やそこから得られる収穫は「神仏との結びつき」のなかで捉えられることもありました。
年貢も、現代の税金とは異なり、寺社の運営や法会・祭祀などを支える意味を持っていました。
「神仏の土地から得たものだから納めなければ」という意識が、年貢を納める動機になっていたのです。
興福寺の圧倒的な支配力と保護前述したように、興福寺は衆徒・国民を組織し大和で大きな政治的・軍事的影響力を持っていました。
寺社領の側から見れば、年貢を納めることは単なる経済的な負担だけではなく、支配関係を維持する意味も持っていたと考えられます。
社会的・慣習的な拘束荘園の仕組みそのものが「寄進」を基盤に成り立っていました。
年貢の減免を求める動きはあっても、年貢制度そのものを否定することは難しかったのかもしれません。
田の広さと年貢が合わなくなった理由
それでは、なぜ「田の広さに見合わない年貢」が生まれたのでしょうか。
その理由として挙げられているのは「古い土地台帳」です。
中世の荘園では、年貢の基準となる土地面積や斗代(段当たりの年貢量)は、過去の検田帳(検注帳)など、古い帳簿により把握されていました。
けれど、長い年月が経てば、実際の耕作面積や収穫量と帳簿上の数字にずれが生じることもあります。