『豊臣兄弟!』「夢のまた夢」あの辞世の句を生んだ秀吉の感性|師・細川幽斎と紡いだ亡き子への想い (2/8ページ)
西軍は田辺城に、小野木重勝・前田茂勝らが率いる1万5,000の大軍を送ります。そして7月19日から、田辺城攻城戦が始まりました。
ちなみに、西軍の人質になることを拒絶した忠興正室のガラシャが、大坂の細川屋敷で自害するという悲劇が起きたのも、このときです。
幽斎が指揮する籠城勢は激しく抵抗し、戦いは約2か月におよぶ長期戦となります。平城とはいえ、周囲を水田や沼沢地に囲まれた田辺城は、要害性に富んだ城郭でした。だからこそ幽斎は、居城の宮津城を放棄して田辺城での籠城を選んだのです。
しかし、攻め手の西軍は約30倍。城攻めでは、攻撃側が守備側の3倍から10倍程度の兵力を必要とするというのが、当時の軍事上の常識でした。
それほどの兵力差があるにもかかわらず、田辺城が持ちこたえたのは、城兵の奮戦以外にも理由があったのです。それは、攻囲軍のなかに幽斎を知る武将が多く、積極的な攻撃をためらわせる事情があったのです。