『豊臣兄弟!』磐覚(坂口涼太郎)のポーズが話題「阿修羅像」は消滅寸前だった!明治の悲劇「廃仏毀釈」とは (5/9ページ)
そのため江戸時代までの日本では、神社と寺院が同じ境内、あるいは隣接する場所に建てられていることも珍しくありませんでした。神社を管理する寺院である「神宮寺」や、神社の祭神を守護する「鎮守社」などは、その代表的な存在です。
ただし共存とはいっても、そこには「仏が主で、神が従」という考え方がありました。これが廃仏毀釈の遠因の一つにもなったのです。
明治政府が打ち出した神仏分離政策明治政府は、1868年(明治元年)から「神仏分離」を進めるための政策を次々と打ち出していきます。
その代表的なものが、以下の一連の布告です。
●1868年(明治元年)3月13日:神祇官を再興し、国家の祭祀を担う機関として位置づける。
●1868年(明治元年)3月17日:神社に奉仕していた別当・社僧などに還俗を命じる。
●1868年(明治元年)3月28日:「神仏判然令」を発し、神社から仏像・仏具などの仏教的要素を取り除き、権現・牛頭天王・菩薩などの仏教的な神号を改める。
●1869年(明治2年)7月8日:神祇官が太政官の上位に置かれ、国家の祭祀や神社行政を管掌する体制が整えられる。