『豊臣兄弟!』妹を強制離縁、実母すら人質に…秀吉はなぜそこまで“非情”になって家康に執着したのか (4/10ページ)

Japaaan

秀吉からの上洛要請に爪を噛む家康(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

しかし、家康にしても小牧・長久手の戦いによる疲弊が残るなか、地震後すぐに大規模な軍事行動を起こすのは容易ではなかったでしょう。

ドラマでは、秀吉が「残った兵糧を民に分け与えよ」と命じる場面が描かれます。しかし、確認できる史料からは、この命令が実際に出されたと裏付けることはできません。これは、ドラマの創作と考えるのが妥当でしょう。

というよりも、その後の秀吉の行動を見る限り、とてもではないが兵糧を民に分け与えるような余裕はなかったとみるのが正しいのではないでしょうか。

秀吉はなぜ家康との和睦を選んだのか

豊臣・徳川双方が身動きを取りにくい状況のなか、先に動いたのは秀吉でした。1586年(天正14年)正月、秀吉は信雄を仲介役として、家康との和睦を進めます。

これは秀吉にとって、必ずしも望んだ形での決着ではなかったのかもしれません。なぜなら、天正大地震による被害があったとはいえ、秀吉は依然として家康を圧倒する政治的基盤と軍事的力を持っていたからです。

「『豊臣兄弟!』妹を強制離縁、実母すら人質に…秀吉はなぜそこまで“非情”になって家康に執着したのか」のページです。デイリーニュースオンラインは、豊臣兄弟!、徳川家康、戦国時代、豊臣秀吉、大河ドラマ、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る