82歳筆者が考える、オバマ大統領の広島訪問...「日本人」の放ったタイムリーヒットだった (2/5ページ)
米国を代表する政治家としては「謝罪は当然あり得まい」幾ら核廃絶の実現を切望していても、現実に大量の核兵器を所有している以上、「たとえ、人道に反しようとも、(自国民を守るために)止むを得ぬ場合の核兵器使用は有り得る」という立場であることは間違い無い。
それでも、核兵器の保有は、直ちにその使用を意味するものでは無く、「核抑止力の保持」だ、という意見を述べる人々も居る。しかし、そう言ってみても、それは所詮詭弁に過ぎぬ。「所有」するということは、レアケースであろうと無かろうと「使用」が前提にあることを否定することは出来ない。
絶対的な不使用ならば、「保持」は全く意味を成さず、全面廃棄の道しか無い。日常的な言い方をすれば、「持っていないものは使えない」し、「持っていても、絶対に使わない」というのは完全に矛盾しており、それなら、最初から持つ意味は全く無い。
現代では、そんな現実離れした話は単なる夢物語に過ぎぬ、と大方の人々は曰(のたま)うだろう。残念ながら、現代の人類や国家という得体の知れぬ化け物はその程度の代物だ、と言わざるを得ない。
してみれば、米国大統領オバマ氏が「広島を訪問して謝罪する」ことなど、最初からあり得ない話である。そういう意味では、「謝罪すべき」だとか「謝罪して欲しかった」と言ってみても始まらない。
無論、この意見は被爆当事者では無い、(東京や、疎開によって山形や和歌山で戦時中を過ごしたに過ぎない)筆者のものだから、もし、被爆された方や、ご家族が被爆の被害を受けられた方が、そんなことは分かりきっているが、「それでも、戦時中の米国の非人道的行為を国を代表して謝罪して貰いたい」と言われるなら、それに対し、筆者の言葉は全く無い。つまり、それは理屈では無いし、そもそも議論すべき事柄では無いからだ。
筆者は、小学生時代に経験した戦争の酷さ(理不尽さ)について語るとき、よく言うのだが、戦争の悪は、人間にとって先ず、基本的に「生理的な悪」だ、と述べている。つまり、戦争は国家間の争いなのに、個人、つまり人間にとって「生きる」という本質的な「生理的現象」に反することを強制するものだからだ。