ヘルマン・ヘッセが敢えて母親の臨終に立ち会わなかった理由 (4/7ページ)

心に残る家族葬

ぼくの心は、母親としての注意や心配を尊重も理解もしないほどお母さんから遠く隔たってはいません」と手紙を書き送った。しかしそれでも、マリーの態度が軟化することはなかった。

■ヘルマン・ヘッセが25歳の時に亡くなった母親のマリー

その2年後の1902年、長患いの末に、マリーは死ぬ。25歳のヘルマンは病床のマリーと直接会う機会はいくらでもあったが、自身が悩まされていた頭痛や不眠を癒すため、また、文学修養のために、絶え間なく遠出の外出や長期旅行に出かけてばかりだった。その間、心のこもった手紙を書き送ることはあっても、決して母を見舞うことはなかった。

ヘルマンがそうしたのは、病で苦しむ母親を間近で見るようなことになれば、自分自身が崩壊するのではないか、という強い不安があったからであるという。つまり、高揚と不安や癇癪に襲われるヘルマン自身を保っていたもの、「詩人以外の何者にもなりたくない」という決意が揺らぎ、「詩人以外の何者」になってしまうことを、避けたかったのだ。その前年の11月にヘルマンは、マリーが読むことは叶わなかったが、詩人カール・ブッセ監修の『新ドイツ叙情詩人』シリーズのひとりとして、『詩集(Die Gedichte)』を世に出していたことも、その選択に彼なりの「確信」を与えていたに違いない。

■臨終にも駆けつけずそ葬儀にも出なかったヘルマン・ヘッセ

マリーが危篤状態に陥ったことを手紙で知らされた際も、ヘルマンはその日のうちに行き来できる場所にいたにもかかわらず、「家族のみなさん。パパの2通の葉書が同時に届いた時、すでにそちらへ行くために着替えを終えていました。あれこれ考え、行かないことに決めました」と書き送っているのだ。

臨終に駆けつけなかったばかりではなく、葬儀にも出席しなかった。「悲しみのうちに、ぼくたちの愛する母が〔神から〕救済されたことを喜んでいます。心のなかでみんなといっしょに墓前に立ち、みんなの手を握ります」と書き、「そのうちに参ります」と家族に約束した。葬儀から数日後の手紙にも、ヘルマンは「愛するママの葬儀に出席しなかったことは申し訳なく思っています」と断りつつも、「みんなにとってもぼくにとっても、行かなくてよかったのではないかと考えています。

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