【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話 (2/9ページ)

Japaaan

初版は数千部が瞬く間に売り切れ、その後版木が二度も摩耗して、三板まで彫り直したという。

寛政期に伝説的な売れ行きを記録した恋川春町の「鸚鵡返文武二道」ですら、こう飛ぶようには売れなかったであろう。もとは一部の識者のものでしかなかった本というものが寛政以来、蔦屋重三郎をはじめ多くの地本問屋や絵草子屋の努力によって庶民にぐっと身近なものになった。今や、籠の鳥の女郎たちまでもが読本を手に腹を抱えて笑う時代である。

国貞「今様見立士農工商之内商人」国会図書館蔵

しかし、娑婆の本屋で容易に手に入らないものが、おはぐろどぶに囲われた吉原の廓内(なか)の本屋で手に入る筈がない。「傾城水滸伝」は半年待っても廓内には入荷しなかったため、いよいよ外の貸本屋まで直吉は走ったのである。

「もしえ花魁。紫野花魁!」

「あいな、お入り」

直吉は、すっと襖を開けて紫野花魁の部屋に入った。座敷とは別に八畳もあるこの部屋は、この岡本屋で一番格の高い看板花魁の象徴である。紫野はその部屋の中央でやはり針を持ち、拡大眼鏡をかけて手ぬぐいらしき布に刺繍をしていた。傍ではぶち猫がつまらなさそうにその作業を眺めている。

行燈(あんどん)もつけずにひどく暗い部屋の中で、紫野が顔を上げて微笑んだ。

「ああ、ちゃんと借りてきてくれたね」

「へえ、外は泥濘(どろ)だらけでとんでもねえですよ。花魁ア出られたもんじゃあねえや」

直吉が膝でにじり寄ると、紫野は台を背後に押しやって刺繍が見えないように隠した。

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