実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【六】 (1/6ページ)

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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【六】

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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【五】

時は幕末・文久三1863年、尊皇報国の志に結集しながら水戸派と試衛館派で内輪もめを繰り広げていた壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ)は、京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)によって取り立てられ、禁門の変(長州藩のクーデター鎮圧)で存在感を発揮したことから「新選組(しんせんぐみ。新撰組)」の名を与えられます。

しかし、そのネーミングには、乱暴者として数々の問題を起こしていた筆頭局長・芹沢鴨(せりざわ かも)ら「水戸派を粛清すべし」という(試衛館派に対する)メッセージが込められていたようです。

芹沢の片腕として活躍していた隻眼の剣術家・平山五郎(ひらやま ごろう)は、水戸派の同志たちを守れるのでしょうか。

銃撃にも怯まず、米屋に押し入った強盗を鎮圧

さて、禁門の変の興奮冷めやらぬ8月下旬、新選組の元に「四条堀川の米屋に強盗が入った」との通報が入り、平山五郎は永倉新八(ながくら しんぱち)、斎藤一(さいとう はじめ)、蟻通勘吾(ありどおし かんご)らと現場に急行します。

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