専門家が「桶狭間」「本能寺」を徹底解説!何度も裏切られた信長の“人物像” (1/4ページ)

Asagei Biz

織田信長
織田信長

 東京アラートが早々に消えたからといって、コロナとの戦いは、まだまだ油断禁物。戦国武将たちが「なかったことにしたい」合戦は、油断によって一敗地にまみれた痛歴史でもある。

「戦の失敗の原因は、戦術や戦略よりも、たいていの場合、敵を見くびり油断したことが原因」

 と、歴史家の河合敦氏は言う。

 駿河、遠江(とおとうみ)、三河を支配していた今川義元の2万5000の大軍が、尾張の「うつけ」(馬鹿者)と言われていた織田信長のわずか2000の軍勢にあっけなく敗れてしまった「桶狭間の戦い」は、その代表例だ。

「なぜ敗れてしまったのかは諸説ありますが、最新の研究では、従来言われてきた高台からの信長の奇襲ではない。『信長公記(しんちょうこうき)』を読むと、義元は桶狭間山(おけはざまやま)という山の上に陣を張っていて全体が見えていたにもかかわらず、信長軍に正面から攻め込まれ、首を取られて敗れたということになります。暴風雨直後の攻撃のうえ、山の下にいたのは輸送を担う農民ら雑兵だったので、いきなり攻め込まれて動揺したことも大きかったようです。さらに新説として、『信長公記』には、柴田勝家ら重臣たちの姿が描かれていない。彼らは彼らで他の戦場で戦っており、織田軍は今川軍に匹敵する大軍で、決して多勢に無勢というわけではなかったというものです」(河合氏)

 ともあれ、今川義元からすれば、鷲津砦(わしづとりで)、丸根砦を取って、これは楽勝だと思い込み、その油断が敗因だったというのが定説。結局、義元は、戦国時代前半のハイライト、信長の登場を鮮やかに印象づける「桶狭間の戦いの敗者」として、日本史にその名を刻んでしまった。こんな不名誉は絶対に「なかったことにしたい」だろう。

「ポンコツ武将列伝」(柏書房)などの著書がある歴史ナビゲーターのれきしクンは、

「今川義元に落ち度はあまりなくて、運が悪かったという気がします。大河ドラマ『麒麟がくる』でも、ごはんを食べて油断していたというふうに描かれていましたが、大高城から沓掛城まで細長い隊列になっていたとはいえ、本陣も固めていたので、油断していたわけでもないと、僕は思います。本来はものすごく強いすばらしい武将です。

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