源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【七】 (3/8ページ)
兄は脚が悪く太刀筋が覚束ず、討ち損じるおそれがございますゆえ、ここはそれがしが……」
名乗り出たのは景義と景親の弟である豊田平次郎景俊(とよだ へいじろうかげとし)。景義は保元の乱(保元元1156年)で敵将・源為朝(みなもとの ためとも)に膝を矢で射られ、騎馬はもちろん歩行もままならぬ状態です。
※保元の乱における景義と景親の武勇伝はこちら。
決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】 決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【中】 決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【下】「……我が命じた通りにせよ」
命令に対して、余計な解釈や代替案など求めておらぬ。ただ従え……そんな頼朝のメッセージを受け取った一同はそれ以上誰も反論することなく、景義は固瀬河(現:神奈川県藤沢市)のほとりで泣く泣く景親を処刑。10月26日のことでした。


