源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【八】 (5/7ページ)
滅び去った義経と、これからの課題
その後、頼朝の真意を汲みとることなく義経は暴走を続けて周囲から孤立し、ついには後白河法皇(ごしらかわほうおう)に対して兄・頼朝の討伐を命じさせます。
「……九郎殿は、完全に(後白河法皇に)取り込まれてしまいましたな……」
事ここに至って看過できなくなった頼朝は、御家人たちに義経の討伐を命じます。もちろん、義経に謀叛を暗にそそのかした朝廷に対する脅しも忘れてはいません。
一方の義経は、人望のなさから呼びかけに応じる者も少なく、わずかな供を連れて京の都を脱出。時は文治元1185年11月3日、壇ノ浦に平家を滅ぼし、凱旋してからわずか半年余りの栄華でした。
さて、都を追われた義経は奥州一帯を支配している藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)を頼って落ち延び、それを討つべく頼朝が朝廷の後白河法皇に義経討伐の宣旨(せんじ。命令)を求めましたが、大切な手駒を失いたくない後白河法皇は、なかなか首を縦に振りません。