前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】 (4/10ページ)
浮田可成画、錦旗(赤地大和錦御旗)。錦旗は錦の御旗の略称。維新政府軍はこの旗を先頭に掲げた。(写真:Wikipedia)
2.慶喜東帰の真相とは「深慮説」この説も半ば尊王説と被るところがある。天皇の存在を絶対的なものと考える慶喜にとって、将軍職や幕府は、来るべく国家体制には不必要なものであった。
欧米列強に対抗するためには、一刻も早く天皇を頂点にした挙国一致の政治体制の確立が必要だった。もし、慶喜が執拗に薩長を中心とする維新政府に反抗すればするほど、内戦が長引くことになる。
慶喜が江戸に戻り、兵力を整え、維新政府軍を迎え撃つなり、京都へ攻め上りなりすれば、薩長の討滅など難しくなかった。
にもかかわらず、慶喜はそれをよしとせず、臆病者との誹りを受けながらも恭順謹慎に徹し、ひとえに内乱を回避した。
このことは、1月23日に勝海舟が示した二者択一案も影響を与えたと考えられる。
自分(海舟)が艦隊を率いて、駿河の海岸に兵を上陸させ官兵を阻止するとともに、艦砲射撃をもって殲滅します。
その上で、軍艦で大坂湾に乗り入れ、西国・中国の海路を閉鎖すれば、敵には最早打つ手はなくなるでしょう。
我が軍の軍事力をもってすれば勝算は十分です。