前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】 (7/10ページ)
しかし、この後に例の変節病が頭をもたげ、急な東下を決心したのだ(『会津戊辰戦史』)
会津藩がいう「変節病」とは何を指すのか。文芸評論家の野口武彦氏は『鳥羽伏見の戦い』の中で、こう指摘している。
それは、1866年の第二次長州征伐の折、旗本一同を集めて、「たとえ、千騎が一騎になるとも、山口城まで進入して戦を決する覚悟なり」と大見得を切りながら、前線の敗退を知るとたちまち意気阻喪し、止戦を願い出て孝明天皇の怒りをかった。
大坂城大演説で、「城を枕に討死」と大見得を切っておきながら、鳥羽伏見で味方の敗戦を前にすると、意気阻喪して、江戸に逃げ帰った。
この慶喜の言動は、長州征伐でも鳥羽・伏見でも、そっくりだというのだ。そして、野口氏は、慶喜の変節病の原因を「臆病風」と言い切った。
慶喜を将軍に推した人物の一人・松平春嶽(しゅんがく)[越前福井藩主]もまた慶喜の人間像についてこう述べている。
慶喜公は、才知優れた人物だ。
しかし、あまり知る人はいないと思うが、とても肝の小さな性質なのだ。胆力が小さい故、なにごとも決断することができない。(『逸事史補』)
戦うも、戦わないも決断ができない。慶喜とはそういう人だ。余りにも辛辣な春嶽の見方である。