前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】 (6/10ページ)

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おじじ様がいらっしゃったから、御一新ができたんでございますよ(榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』)

徹底抗戦か、恭順か、慶喜に二者択一を迫った勝海舟。(写真:Wikipedia)

3.慶喜東帰の真相とは「変節説」

尊王説・深慮説はともに、慶喜のひとえに朝廷を重んじる精神と自己犠牲によるもので、言い換えれば、慶喜を称える説である。

しかし、これから述べる変節説は、慶喜の人間像を貶めるものといえるだろう。

では、慶喜の変節とは何か。それは、1月7日の開陽丸上での慶喜と松平容保の会話に対しての会津藩の所見から伺える。

あのように勇ましい演説を行い、我が軍の士気が大いに盛り上ったのにもかかわらず、何故、こうも急に東帰することを決心されたのか。(松平容保/『会津戊辰戦史』)

あのような調子でやらなければ、皆が奮い立たないからだ。あれは一種の方便だよ。(徳川慶喜/『会津戊辰戦史』)

この会話に対し、会津藩はこう所見した。

5日に大坂城大広間で内府が述べたことは、心からそう思ったことであったに違いない。

その時は、維新政府軍と徹底抗戦をしようと決意していたのだ。

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