前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】 (3/10ページ)
ここからは、なぜ慶喜が大坂城脱出という前代未聞の敵前逃亡を行ったか、少しでもその真相に迫るため、「尊王説」「深慮説」「変節説」の3つの説を考察していこう。
1.慶喜東帰の真相とは「尊王説」「尊王説」は、徳川慶喜が水戸藩主の家に生まれたことに基づく。
水戸藩で奉じられた学問が水戸学で、尊王攘夷を源泉としながら、内憂外患の危機にいかに対処するかを説いたものだ。
このような学問に幼少の頃からどっぷりと浸っていた慶喜が、尊王の志を人一倍持つのは当然のことだろう。
慶喜は、1863年の「八月十八日の政変」で、京都から長州藩が追放された後、禁裏御守衛総督として京都に常駐する。「禁門の変」では、御所守備軍を自ら率いて、御所に押し寄せた長州藩兵を退けた。
慶喜の働きに対し、時の孝明天皇は絶対的に信頼した。慶喜もまた、孝明天皇の信任に応え、持ち前の政治力を遺憾なく発揮したのだ。
そんな慶喜だけに、大政奉還後は天皇を頂点にした挙国一致の政治体制の確立を目指していた。
水戸学の下では将軍という地位は大した意味を持っていなかった。それよりも、天皇という存在が絶対的であったと思われる。
それ故に、鳥羽伏見の戦いで、錦の御旗が維新政府側に翻り、慶喜に朝敵の烙印が押されたことが決定打となった。この時点で、慶喜の恭順の意志は固まったのである。