徳川亡き後「第4の幕府」を狙った?幕末の薩摩藩主・島津忠義の野望と英断 (2/7ページ)
19歳となった安政5年(1858年)、忠徳は主君に当たる伯父・島津斉彬(なりあきら)の子・島津哲丸(てつまる。2歳)を後見するため斉彬の養子となります(その直後、斉彬は7月16日に死去)。
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実父・島津久光(左)と養父・島津斉彬。Wikipediaより。
しかし哲丸はまだ幼く、また病弱であったためか家督はそのまま忠徳が継ぐこととなり、同年12月28日、正式に家督を継いだ忠徳は第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)から一文字を授かって島津茂久(もちひさ)と改名しました。
※ちなみに、哲丸はその直後の安政6年(1859年)1月2日に死去。もはや用済みとばかりに消されてしまったのでしょうか。
こうして薩摩藩主となった茂久でしたが、まだ若いこともあって、政治の実権は養祖父の島津斉興(なりおき)や父の久光らが握っていたと言います。