徳川亡き後「第4の幕府」を狙った?幕末の薩摩藩主・島津忠義の野望と英断 (6/7ページ)

Japaaan

仁和寺宮殿下と岩倉具視。Wikipediaより。

陸海軍務総督は三頭体制で、武家代表として茂久のほか皇族から仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう。小松宮彰仁親王)、公家からは岩倉具視(いわくら ともみ)が選ばれ、茂久は一歩引いて二人を補佐したという事です。

エピローグ

「何じゃ、徳川は滅ぼしても、幕府までなくすつもりはなかったんじゃがのぅ……」

明治維新が果たされた後、島津久光はよくボヤき……もとい公言していたそうです(島津幕府?の実現をよほど熱望していたのでしょう)。

せっかく徳川を滅ぼして、島津家に天下が巡って来たというのに、むざむざそれを手放そうとは……遠ざかりゆく「武士の世」を惜しみつつ、近代国家の建設に邁進していった島津忠義(明治維新後に改名)はじめ旧薩摩藩士たち

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