徳川亡き後「第4の幕府」を狙った?幕末の薩摩藩主・島津忠義の野望と英断 (3/7ページ)

Japaaan

戊辰戦争で海陸軍総督を拝命するも……

さて、そんな茂久率いる薩摩藩は、大政奉還によって天下の政権を返上し、将軍家から一雄藩に成り下がった徳川慶喜(よしのぶ。元第15代将軍)が新政府に参画することを認めず、あくまで討ち滅ぼす方針でした。

明けて慶応4年(1868年)1月3日、徳川討伐(戊辰戦争)の火蓋が切って落とされた鳥羽・伏見の戦いに勝利、慶喜が大阪から江戸へ逃げ帰ると、これを追うべく東征の兵を興します。

これに際して、茂久は朝廷より海陸軍総督(かいりくぐんそうとく)を拝命。これは文字通り海軍と陸軍を統べるトップ(督-かみ。長官)で、武門の誉(ほまれ)としてこれにまさるものはありません。

我が島津家は源氏の末裔(※)……なれば、源氏の棟梁として征夷大将軍の位に就き、徳川に成り代わって天下に号令しようぞ!」

頼朝公の落胤だった?島津氏の祖・惟宗忠久。Wikipediaより。

(※)島津家の祖・惟宗忠久(これむね ただひさ)は源頼朝(みなもとの よりとも)の庶子との説(≒島津家による主張?)があります。

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