自己のあり方に悩む若者から絶大な人気を得た思想家・綱島梁川 (2/5ページ)

心に残る家族葬

大反響を呼んだ。第1の体験は7月のある夜。神との一体感を感じ、15分ほど続いた後その感覚は消えたという。第2の体験は9月秋空の下で起こったという。次の第3の体験は最も強烈なもので、「Shocking 錯愕、驚喜の意識は、到底筆舌の尽くし得る所にあらず」と書いている。

■「神を見た」は胡散臭いと捉えられてもしょうがないが

神を見た、神との一体などと言うと胡散臭い輩だと思う向きもあるだろう。実際神からお告げをもらったなどの類を宣う人には近づかない方が無難である。かといって頭ごなしに否定してしまうと先人の体験も否定してしまうことになる。ソクラテス(BC470頃〜399)は神が降りたとして放心状態になったことがしばしばあった。空海(774〜835 )は炎が口の中に飛び込むという神秘体験を記しているし、カトリックには「幻視」体験が多く散見される。こうした先人の体験に比べ梁川の見神体験は深いものとはいえない。また多くの神懸かり、神降ろしと呼ばれる現象と異なり、梁川の見神体験はこの3回のみである。これ以降梁川に神秘体験は起こっていない。というよりそれ以上踏み込まなかったという方が正しい。梁川は体験そのものよりその体験を人生においていかに活かすか。「悟後の修行」を重視したのである。

■神を肯定しつつも神と一線を画した綱島梁川

「神は現前せり、予は神に没入せり、而かも予は尚ほ予として個人格を失わずしてあり」(「予は見神の実験によりて何を学びたるか」)

梁川は神と合一し神に溶け込むかのような神秘体験をしながらも、自分の個としての人格は失われずにいたとしている。「神が降りた」「神の啓示を受けた」云々と、古来より神との交わりを語る者の多くは一種の法悦、エクスタシーが語られる。神との一体感による我の消失である。これには主体性の喪失という危険性があり、オウム信者などは神秘体験に囚われ個我を見失ったといえる。禅ではこのような神秘体験を「魔境」と呼び戒めている。梁川にあっては神との一体感を味わいつつも、体験にのまれず、神を他者として認識する個人格が存在した。梁川は他力を説く親鸞には傾倒したというが、基本的には仏教には批判的であった。仏教の無我論に個としての自我を解体してしまう危険を見たのである。

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