藩主なのに脱藩して戊辰戦争を闘い抜いた「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【前編】 (2/7ページ)
幼名は昌之助(まさのすけ)、早くから利発で文武両道との評判高く、将来を嘱望されていたそうです。
林家は甲斐源氏の末裔である小笠原(おがさわら)氏の傍流で、徳川将軍家の始祖・松平親氏(まつだいら ちかうじ)の代から仕えた(※)という最古参の忠臣。
(※)伝承によれば、困窮していた親氏に兎の吸い物を振る舞ったご縁から主従関係が始まったと言い、その恩を忘れぬよう、徳川家では正月になると兎の吸い物を食したと言います。
それゆえ徳川将軍家に対する忠義の篤さは尋常ならざるものであり、それが忠崇の運命を決したと言えるでしょう。
さて、20歳となった慶応3年(1867年)に藩主の座を継いだ忠崇でしたが、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、徳川将軍家(※)を守るべく兵備を増強。
(※)すでに大政奉還しているため、厳密には旧幕府。
総大将の徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が鳥羽・伏見の戦いより敵前逃b……もとい江戸へと帰還。