島原の乱では幕府の総大将!江戸初期の政治家・松平信綱の活躍と実績をたどる【後編】 (6/6ページ)

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明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年/1814年)(Wikipediaより)

しかし信綱はこう答えました。

合議すると時間がかかるので、落ち度があれば責任は全て私が負う覚悟で取り決めました。この度の大火で江戸は家屋も米蔵も焼失しています。参勤で地方から多くの大名家が来れば食物が不足し、さらに民を飢えさせます。万一この機を狙った逆意の徒があったとしても、地方での騒ぎであれば防ぎようもあろうかと愚考いたしました」

と応え、頼宣を感嘆させたといわれています。政治家は時として「独断専行」の決断も必要であることを、信綱はちゃんと分かっていたのでしょう。

さてしかし、そんな信綱ですが、実は人望はあまりありませんでした。いかんせん生真面目に過ぎ「才あれど徳なし」とまで評されていたそうです。

信綱は下戸で酒も飲めず、茶の湯や歌会、舞、碁、将棋なども好みませんでした。好きなことは、暇なときに心を許した者を集めて政治の話をすることだったそうです。

なるほどという気もしますね。頭がよくて仕事もできる政治オタクで、「遊び」を知らないお堅い人物ともなれば、とっつくにくくもなります。

しかしこうして彼の経歴や実績を見ていくと、まるで人生の全てを、江戸時代の幕藩体制の確立に捧げたかのようです。彼は67歳で、老中のままで没しました。

とっつきにくい人物だったのかも知れませんが、その後250年続く幕藩体制の基礎を固めたことを考えると、松平信綱という人の功績がいかに計り知れないものだったかが分かりますね。

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