石神井川に架かる下頭橋という橋と側に建つ小さな六蔵祠を調べてみた (2/7ページ)

心に残る家族葬

州のこと)豊嶋郡上板橋邑
河原与右衛門
篠  喜平次」

碑文から類推すると、発願者2人は恐らく僧侶で、上板橋村全体の名主である河原与右衛門と、村内の小竹(こたけ)地区の有力者・篠喜平次が世話役となって、寛政10年(1798年)に橋を完成させた。その際に、この供養塔もつくられたのではないかと考えられている。

■下頭橋に伝わる3つの話

それに加え、この橋の名前の由来として、3つの話が伝わっている。

1つは、敵から攻め込まれて孤立することを想定し、江戸城への兵糧確保のために整備されていた川越街道を参勤交代の行き帰りで利用した川越藩主が必ず、第一の宿場である上板橋宿に立ち寄る。その際、宿の出入り口でもあるこの橋で、家臣たちが藩主をお迎えし、そして帰途の折にはお見送りするためにずっと頭を下げていたということから。

2つ目は、橋の架け替えを主導した旅の僧が、作業が終わった際に、自身がついていた榎(えのき)の杖を地面につき刺した。するとそれが根つき、大木となった。「逆さ榎」と名づけられたその榎に願掛けをすると、産後の乳の出がよくなる、虫歯が治るなどの御利益がある。あの僧は弘法大師(774~835)の再来かと、評判になっていた。また後々、根元の洞穴に白蛇が住んでいるといって、恐れられてもいた。つまり、「逆さ榎」すなわち、頭が下になって植わっている榎からきたというもの。

そして最後は、2つめの話に登場する「旅の僧」と関連があるのだが、橋のたもとにいつしか住みついていた「六蔵(ろくぞう)」という、今でいうホームレスの老人男性にまつわる言い伝えからきているという。

■かつて周辺には大規模な宿場があった

上板橋宿は、この橋の完成から時代が下るが、文政8(1823)年当時およそ6町40間(約740メートル)、道幅は3間(約5.5メートル)。宿内に90軒の家が建っていたが、大規模な宿場につきものの、大名や旗本、幕府役人が泊まる本陣(ほんじん)や、人馬の交代を差配する問屋場(といやば)はなく、土地の名主・河原家の屋敷でそれらの業務が行われるなど、小規模で純農村地帯の側面が強い地域だった。

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