石神井川に架かる下頭橋という橋と側に建つ小さな六蔵祠を調べてみた (3/7ページ)

心に残る家族葬



とはいえ「宿場」であることから、旅人の往来は少なくなかった。それにもかかわらず、橋は当時、丸木を2~3本並べただけの橋で、強風や大雨に見舞われたときには、いつも流されてしまう、とても危険な橋だった。そんな橋のたもとで、地域の人々から親しまれていたという六蔵は何年にもわたって、行き交う旅人に喜捨を求めていた。そのような六蔵はあるとき、亡くなってしまった。偶然に通りかかった旅の僧が弔いのために、六蔵の亡きがらを調べたところ、胴巻きに隠されていた大金がみつかった。恵んでもらったお金を遊興などに無駄遣いせず、六蔵はこつこつと貯めていたのだ。そこで旅の僧がそのお金をもとに、丸木の橋を石橋に架け替えた。つまり「下頭」とは、六蔵が喜捨をもらうために、多くの人々に頭を下げてお願いしていたことからきたものだというのだ。先に紹介した石碑に刻まれていた「願主」の「頓入」と「善心」は、もしかしたら、橋を架け替え、杖を地面に刺した旅の僧と、死後、法名をいただいた六蔵のことではないかという説もある。しかも、先に紹介した石碑、「他力善根供養塔」が立っている「六蔵祠」は、架橋に貢献した六蔵のことを「菩薩」とあがめ、その霊を祀ったものだからだ。

■六蔵をモデルにした吉川英治 執筆の短編小説「下頭橋由来」

ところで、この「六蔵」をモデルにした短編小説『下頭橋由来』を、『宮本武蔵』(1936年)などで知られる国民的作家・吉川英治(1892~1962)が、昭和8(1933)年に執筆している。本作では「岩公(いわこう)」という名前の、34~5歳の物乞いだが、石神井川に落ちた子どもを助けたり、主人公のお次(つぎ)が川に落としてしまった銀のかんざしを探し出したり、誰からの指図も依頼もないにもかかわらず、自主的に地域のごみを河原へ運んでまとめて燃やしたり、ほうきをきれいにかけているような好人物だった。しかし実は岩公は、小田原の侍・岡本半助の妹・弟の仇として追われている、奉公人の佐太郎だったのだ。半助が岩公を見つけ、大騒ぎしていたことから、村人は何とかして、岩公を逃してやろうと、一計を案じた。日本橋の大丸に届けるという、20樽ほどのたくあん漬けの樽のひとつに岩公を隠したのだ。
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