後鳥羽上皇、ついに挙兵!北条義時の義兄弟・伊賀光季の壮絶な最期・前編【鎌倉殿の13人】 (2/6ページ)
「挙兵に際して、仲間が大いに越したことはない。京都守護職の両名は引き込めないか」
当時、京都守護職には大江親広(おおえ ちかひろ。大江広元の子)と伊賀光季が当たっていました。
「大江はお召しに応じるでしょうが、伊賀は北条の縁者ゆえ応じますまい。いずれにせよ形式的に召し出されて、応じなければ討伐する大義名分が立ちましょう」
胤義の返答に納得した後鳥羽上皇は、さっそく大江・伊賀の両名に使者を発します。大江親広はただちに50騎ばかりの軍勢を率いて直ちに参上しました。
「よう参った。時に云々かんぬんにつき、京と鎌倉のいずれに与するか、今ここで申せ」
畏れ多くも上皇陛下に面と向かって「はい、鎌倉につきます」とは言えず、親広は後鳥羽上皇に味方する旨の起請文をその場で書かされてしまいます。
一方の伊賀光季は後鳥羽上皇の意図を察していたようで、すぐには出向かず慎重に回答しました。
「畏まりました。