後鳥羽上皇、ついに挙兵!北条義時の義兄弟・伊賀光季の壮絶な最期・前編【鎌倉殿の13人】 (1/6ページ)

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後鳥羽上皇、ついに挙兵!北条義時の義兄弟・伊賀光季の壮絶な最期・前編【鎌倉殿の13人】

源実朝(みなもとの さねとも)が暗殺され、にわかに「主なき宿」となってしまった鎌倉。

臨時に執権の北条義時(ほうじょう よしとき)ら一族が政務を取り仕切っていたものの、実質的には彼らが鎌倉の支配者となっていました。

このままでは、関東が朝廷の支配下より独立してしまいかねない。ここで何とか食い止めるべく、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は義時以下北条一族の追討を図ります。

『承久記絵巻』より

それが後世に伝わる承久の乱。かつて源頼朝(よりとも)が切り開いた武士の都(幕府)を守り抜けるか、あるいは公家たちによる支配体制に逆戻りしてしまうのか、ここが正念場です。

今回はその前哨戦となった伊賀光季(いが みつすえ)のエピソードを紹介。北条義時の義兄弟として節義をまっとうしたその最期を、お見届けいただければと思います。

決死の覚悟で後鳥羽上皇の呼び出しを辞退

時は承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の討伐を前に、近臣の三浦胤義(みうら たねよし。平九郎)を召し出しました。

胤義はかつて合議制(鎌倉殿の13人)の一人であった三浦義澄(よしずみ)の子で、三浦義村(よしむら)は兄に当たります。

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