愉快だけど、キレると怖い?北条一族の魔手から家名を守り抜いた鎌倉武士・三浦家村【前編】 (2/6ページ)

Japaaan

讃岐中将こと一条実雅(いちじょう さねまさ)が大倉の館で百日にわたる小笠懸(こがさがけ。騎射鍛錬の一つ)を始めた際に、兄・三浦泰村(やすむら。駿河次郎)と共に射手として腕を奮っています。

讃岐中將。於大倉亭。被始百日小笠懸。毎日日出以前。若属晩凉。可會合之由。數輩成約諾。先今日射手結城七郎朝廣。駿河次郎泰村。同四郎家村。小笠原六郎時長。佐々木太郎兵衛尉重綱。同八郎信朝。伊東六郎兵衛尉。嶋津三郎兵衛尉忠義。原左衛門尉忠康。岡邊左衛門尉時綱。横溝五郎。同六郎。伊具右馬太郎盛重。

※『吾妻鏡』貞応元年(1222年)7月3日条

三浦一族は弓の名手が多く、その名に恥じぬ腕前を誇ったことから、以後ちょくちょく騎手として登場。第4代鎌倉殿・藤原頼経(ふじわらの よりつね)の側近として信頼されており、行事への供奉や太刀持ちなどの大役も任されました。

仁治2年(1241年)6月27日には式部丞(しきぶのじょう)に推挙され、7月25日付の辞令書が京都から届いたことをみんなに見せびらかしています。よほど嬉しかったのでしょうね。

駿河四郎〔式部丞〕家村持參去月廿五日除目聞書披覽。彼日令叙爵之由申之。六月廿七日任式部丞訖。

※『吾妻鏡』仁治2年(1241年)8月11日条

「おいみんな、見てくれよ!やったぜ式部丞、何かカッコいいなぁオイ!」

「ハイハイおめでとうよ。

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