「鎌倉殿の13人」刻々と近づく1月27日。『吾妻鏡』をたどり、第44回放送「審判の日」を予習 (2/7ページ)

Japaaan

宿直之輩候廻廊。而兒童若僧等徘徊明月。彼宿直人見無礼之故。起鬪諍。爲少生被打擲云々。

※『吾妻鏡』建保6年(1218年)9月13日条

【意訳】鶴岡八幡宮寺の境内で騒動が起こった。関政綱(せき まさつな)と若狭忠季(わかさ ただすえ)が駆けつけ、事情を聴取したところ、以下のように供述。

宿直の者曰く「名月に浮かれて稚児や若い僧侶らが境内を散歩しており、警護当番が注意したところ逆ギレし、殴られた」とのこと。

まったく血気盛んなことで、取り調べを進めると最初に手を出したのは駒若丸と判明しました。

晴。以金窪兵衛尉行親爲御使。被糺明去夜宮寺狼藉事。是三浦左衛門尉義村子息駒若丸〔光村是也〕爲張本云々。謂。件宿直人者。右大將家御時。敬神之餘。以恪勤〔号小侍〕等結番之。毎夜所被警固宮中也。其儀于今不怠之處。逢耻辱之間。向後可停止此事之由被定下。於駒若丸者。被止出仕云々。

※『吾妻鏡』建保6年(1218年)9月14日条

【意訳】金窪行親(かなくぼ ゆきちか)に取り調べさせた結果、昨晩の狼藉は駒若丸が張本人と判明。

実朝は「亡き頼朝様の時代から、八幡様へ信仰心から始まった有志の奉仕なのに、こんな恥辱を受けるようなら今後はやめよう」と指示した。

鎌倉殿と八幡様の絆を台無しにしてしまったことにより、駒若丸は出仕を止められる謹慎処分が下されます。

その後、駒若丸が『吾妻鏡』に登場するのは2年後の承久2年(1220年)12月1日(すでに元服して三浦光村に改名)。もしこの期間ずっと謹慎していたとすれば、公暁が惹き起こした例の事件には全く関与していないことに。

しかし大河ドラマではそれだと面白くないので、何かしらの形で公暁を助けるものと予想されます。公暁と父・義村の橋渡し役として活躍に期待です。

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