【朝ドラ らんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯④ (3/7ページ)
明治17(1884)年、朝ドラのモデルである牧野富太郎が上京。良吉によって当時の帝国大学理科大学(東京大学理学部)の出入りを許可されます。
牧野は、文献や資料などの使用を許可されて研究活動に専念。しかし大学の資料を使いながら、個人で研究発表したことが問題視されます。
結局、牧野も植物学教室の出入りが禁止となってしまい、一度は植物学の道が断たれてしまいました。
良吉は在野の研究者に対して寛容だった一方、軋轢を生むことも多かったようです。
日本の植物学の歩みを進めた瞬間、道を断たれる…植物学の世界において独創状態の良吉でしたが、やがてその活動にも終わりの時が訪れます。
明治23(1890)年10月、良吉は『植物学雑誌』の中で「泰西植物家諸氏ニ告グ」とする文章を英語で載せています。
文章は、東京大学に集積された標本と文献資料を土台に、日本の研究者によって植物記載を行うことを宣言したものでした。
良吉は『植物学雑誌』の誌面にいて論文を次々と発表。のみならず図版を掲載した『日本植物図解』や『日本植物編』などの書籍を出版しています。