【朝ドラ らんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯④ (4/7ページ)
しかし人に対して激烈な批判を加える性格が災いし、良吉は周囲から敵対視されることも多くなっていました。
やがて良吉は東京大学学長・菊池大麗と対立。確執を深めたとされ、大学から非職(休職だが、事実上の停職処分)とされます。
確かな理由は不明ですが、良吉の周囲との軋轢、加えて東京女子高等学校での騒動が槍玉に挙げられたのでは、と予想できます。
そしてこの瞬間、良吉による世界の植物学研究に加わる思いは、完全に断たれたことを意味していました。
演説に見る、古き学問を認める姿勢
植物学者の道が断たれた良吉ですが、教育における活動には変わらず関わり続けていました。
明治24(1891)年、良吉は群馬県の「桐生教育会」において演説。教育と学問について論じています。
良吉は、従来の教育制度では不十分だと考えており、学校の運営設立が急務だという立場でした。
学術研究と教育は密接不可分の存在であると、良吉は考えていたようです。
演説において良吉は、教員によるより良い教育を行うための方法論を力説していました。
内容は教員の地位保証や、専門分野を探求するための時間を確保の必要性まで多岐にわたります。
さらに良吉は江戸時代の本草学者たちを引き合いに出していました。