「どうする家康」信長を殺し、天下を獲る!?第26回放送「ぶらり富士遊覧」振り返り (3/12ページ)

Japaaan

ひそかに織田右府にくだり甲州の案内せんといへば。右府大によろこばれ。その身七万餘兵にて伊奈口よりむかはれ。其子三位中将信忠卿は五万餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。   君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の国へ迯帰る。   君の御勢は二月十八日浜松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へいたる。右府は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには。国中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとより寛仁大度の御はからひにて。依田三枝などいへる降参のもの等は。志ろしめす国内の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うちうち恵み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝頼をうらむる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地蔵堂に参り   君に対面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝頼は梅雪典厩逍遥軒などいへる一門親戚にもおもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。その子太郎信勝と共にうたれたり。……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十年「天正十年武田氏亡」

【意訳】木曾義昌は、かの木曾義仲(よしなか)の17代子孫であった。武田の一門衆(亡き信玄の娘婿・勝頼の義兄弟)でありながら勝頼に恨みを持って織田に内通。甲州征伐を先導した。

信長は信濃伊那方面から70,000の大軍を率い、嫡男の織田信忠(のぶただ)に50,000の兵を与えて木曾方面から攻め込ませる。

盟友たる家康も35,000の兵をもって駿河から攻め込んだところ、この機を逃すまじと相模の北条氏政(演:駿河太郎)も30,000の軍勢で東から武田領へ侵攻した。

小山城・田中城・持船城など武田方の城兵は、抵抗することなく甲斐国へと逃げ帰る始末。

家康は2月18日に浜松を出て懸川に到着。翌19日に家康が諏訪原城(牧野城)へ着いた時点で、先鋒は既に金谷・島田へ着くほど長蛇の大軍であった。

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