「どうする家康」さらば狼、ありがとう我が友。第28回放送「本能寺の変」振り返り (9/12ページ)
やがて信長の右筆(書記官)となって信任を得、畿内の事情に通じていることから対堺の窓口を担当。豪商らより名物茶器を献上させました。
茶の湯に嗜みがあることから天正6年(1574年)の相国寺茶会では茶頭を務め、また正倉院より蘭奢待(らんじゃたい。香木)を拝受する奉行も拝命します。
やがて堺の代官となって権勢を振るい、津田宗及らとも親交を深めました。
また外交方面でも活躍し、上杉・三好・本願寺らと交渉。他にも謀叛を起こした松永久秀(まつなが ひさひで)や荒木村重(あらき むらしげ)の説得にも当たっています。
更には遠く奥州の伊達輝宗(だて てるむね)や九州の大友宗麟(おおとも そうりん)と接触するなど、まさに東奔西走でした。
本能寺の変が起きた時は、堺で家康と茶会を開いており、やがて羽柴秀吉に仕えます。
しかし天正14年(1586年)にいきなり罷免され、以来歴史の表舞台から姿を消したのでした。
今井宗久(いまい そうきゅう)永正17年(1520年)生~文禄2年(1593年)8月5日没
大和国高市郡今井村(奈良県橿原市)に生まれ、立志して堺の納屋宗次(なや むねつぐ)に身を寄せます。
武野紹鴎に茶の湯を学んで才覚をあらわし、やがて娘婿となって家財や茶器などを譲られました。
やがて足利義昭(演:古田新太)に近侍した宗久は、やがて勢力を伸ばした信長に逸早く賛同し、その信任を得て重用されます。
信長の死後も羽柴秀吉に仕えて御伽衆を務め、また茶頭として北野大茶会に協力しました。
津田宗及・千利休に並ぶ天下三宗匠と呼ばれましたが、秀吉は千利休や小西隆佐(こにし りゅうさ)らを重んじたため、信長時代ほどの栄華は得られなかったようです。