イケメンすぎる若き将軍・足利義尚!室町幕府の権威回復を一身に背負った悲劇的な人生…【後編】 (7/7ページ)
知るも知らぬも、涙を流しけり」とあり、輿に乗ったまま声を惜しまず号泣する富子と、それを聞いた人々も皆涙を流したと伝えられているのです。
義尚に対する歴史的評価は、一般に辛辣です。その理由は鈎の陣中で執政を行う時、一部側近にのみ幕政を委ねた。酒色に溺れて死んだ。親征を行ったものの何の成果を挙げられなかった。さらに教育係であった一条兼良が、余りに無能なので見放した、というものまであります。
しかし一方で、義尚は義満以来、万余の兵を率いてその陣頭に立った勇将であり、和歌・絵画・書にも通じた文化人でもありました。
そのような義尚だからこそ、都人たちは出陣する彼に手を合わせて見送り、その亡骸の前で涙を流したのではないでしょうか。ただ惜しむらくは、天は彼に長生きを許さなかったのです。
義尚の死後、足利将軍家は一門内の将軍争いや大名たちの抗争により、京都を追われたり上洛に苦労したりと、もはや安定した政権維持が不可能となりました。
もし義尚がもう少し長く生き、京都に戻って活躍できていたなら、足利将軍家の立場も多少は異なっていたのではないでしょうか。
※参考文献
山田康弘著 『足利将軍たちの戦国乱世』 中央公論新社刊
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan