家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】 (2/7ページ)

Japaaan

7歳のとき、昌幸は武田信玄の近習として武田家に出仕したが、父・幸隆が外様の先方衆であったためか、人質待遇であったともいわれている。

武田氏の本城・躑躅ヶ崎館(撮影:高野晃彰)

しかし、奥近習衆として信玄の信頼を得ると、甲斐の名族で名跡が絶えていた武藤氏の養子となり、「武藤喜兵衛」と名乗るようになる。これは、同母兄に嫡男・信綱、次男・昌輝がいたため、昌幸が真田家の家督を継ぐ可能性が低かったことによると考えられる。

1567年(永禄10)、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には、武田家宿老である山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、土屋昌続らとともに、信玄の使者を務めており、昌幸はこの頃すでに重臣、あるいはそれに準ずる地位にあったと見られている。

「家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、知将真田氏真田昌幸戦国武将戦国時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る