家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】 (5/7ページ)

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昌幸も普請に関わったとされる新府城(撮影:高野晃彰)

こうした状況下、昌幸は完成間もない新府城を捨て、自らの居城・岩櫃城への退却を勝頼に進言した。しかし勝頼は、岩殿城の小山田信茂を頼った。その結果、信茂の裏切りにあい、最期は天目山で自害に追い込まれた。こうして、武田氏は滅亡したのである。

『天目山勝頼討死図』「歌川国綱画」(Wikipedia)

天正正午の乱と第一次上田合戦の勝利

武田家滅亡後、昌幸は本領の真田とともに上野の一部を領有する戦国大名として独立した道を歩むようになる。

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