卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】 (4/10ページ)
さらに「箸墓」の造営には少なくとも10年を要したとし、卑弥呼の死後、新たな政治連合を構築した後継者たちによって築かれたと推測しています。この連合とはおそらくはヤマト政権で、身分秩序に応じて大小の古墳を築く体制を整えていったというのです。
また白石氏は、纏向遺跡の北東にある大和(おおやまと)古墳群の「西殿塚古墳」を、台与とその男弟の墳墓と位置づけています。
一方で「台与説」を唱える辰巳和弘氏(元同志社大学歴史資料館教授)は、纏向古墳群を庄内0式から布留0式にかけての土器編年によって整理し、その築造順序を「纏向石塚古墳」→「纏向勝山古墳」→「纏向矢塚古墳」→「東田大塚古墳」→「箸墓古墳」としました。
その結果、「箸墓」と卑弥呼の没年は一致しないと判断しています。さらに『魏志倭人伝』において、卑弥呼は「共立された」と記されるのに対し、台与は「立てられた」とあることから、台与の時代は政治的に安定していたと推測。