『豊臣兄弟!』で注目の舞台──超重要、天下統一の契機「中国大返し〜山崎の合戦」の真相に迫る【前編】 (4/9ページ)
赤松之城水責之図/東京都立中央図書館所蔵(Wikipedia)
しかし、光秀から毛利家へ送った信長滅亡を知らせる密使を捕らえた秀吉は、自らがとんでもない窮地に立たされてことを悟ります。
信長の死を毛利家が知れば、すぐさま秀吉に決戦を挑んでくるに違いありません。それどころか明智勢から背後を襲われ、毛利勢との挟み撃ちになる可能性すら高かったのです。
秀吉はとっさの判断で、清水宗治の切腹を条件に講和を果たします。そして諸説ありますが、秀長に殿を命じ、躊躇なく軍勢を京都に向けてとって返しました。これが歴史上に名高い秀吉の「中国大返し」でした。
160kmの距離をわずか5日で移動する驚異の大返し光秀にとって、何よりも誤算だったのは、秀吉のあまりにも素早い動きでした。備中高松城の包囲を解いた秀吉は、2万5千の軍を率い、6月6日の午後に高松を発つと、約12キロメートルを移動し、その日の夜には備中沼城に到着して一夜を明かします。