『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた英傑・斎藤義龍(DAIGO) 再評価すべき生涯 (3/9ページ)

Japaaan

儒教的倫理観が色濃く残る時代にあって、それは後世の評価を大きく左右する要因となったのです。

下剋上が横行した戦国時代とはいえ、「父殺し」は最大級のタブーでした。では、なぜ義龍は実父と刃を交えるに至ったのでしょうか。

道三を滅ぼした義龍の親殺し。その真の理由とは

義龍による「父殺し」の理由については、古くからさまざまな説が語られてきました。

・義龍の母とされる深芳野(みよしの)は、道三の側室となった時点ですでに土岐頼芸の子を身籠っており、義龍は頼芸の子だったという説。
・道三は義龍を愚か者とみなし、弟の孫四郎・喜平次らを寵愛して廃嫡を企てたという説。
・義龍は自らの実父を頼芸だと信じ、追放された頼芸の仇を討つために道三を討ったという説。
・道三が濃姫(帰蝶)の婿・織田信長の器量を高く評価し、「我が子(義龍)は、いずれ信長の門前に馬をつなぐ家来になる」と語ったという逸話。

いずれも広く知られた説ですが、決定的な史料は存在せず、真相はいまだ定かではありません。

ただ一つ注目すべきは、義龍が一時期「范可(はんか)」と名乗ったことです。范可とは、中国・唐代にやむを得ず父を討った人物の名とされます。

この改名は、義龍がすでに「父との戦いは避けられない」と覚悟を固めていたことを示すものとも考えられます。すなわち、私怨ではなく「国のための決断」であると、家臣や国衆に示そうとしたのではないでしょうか。

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