【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)と対立し非業の末路…戦国武将・佐々成政(白洲迅)の壮絶な生涯 (5/7ページ)
歌川芳形「英雄八景之内笹良越暮雪」
光秀を討ち取った後、信長の後継者を決める清須会議で秀吉と勝家の対立が決定的になると、成政は勝家を支持します。
翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦では、成政は勝家に与しました。しかし上杉対策で戦力が割けなかったため、わずかな援軍を出すにとどめています。
そして勝家が敗死すると成政は秀吉に降伏。娘を人質に差し出して自身は出家し、秀吉から越中国を安堵されました。このことから「成政の裏切りで勝栄は滅んだ」という風説が流れたそうです。
織田政権をまんまと乗っ取った秀吉を快く思わない徳川家康(松下洸平)が反秀吉姿勢を明確にし、天正12年(1584年)に小牧・長久手合戦が勃発しました。
勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【前編】成政ははじめ秀吉に従っていたものの、途中で家康に寝返っています。越中国から加賀国の前田利家を攻撃したものの撃退され、また上杉景勝からの攻撃もあって苦戦を強いられることになりました。
やがて秀吉が織田信雄(のぶかつ。信長次男)と和睦し、戦う大義名分を失った家康も秀吉と和睦してしまいます。なおも継戦の意志を持っていた成政は、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を越えて(さらさら越え)家康に再戦を訴えました。
しかし家康に戦う意思はなく、成政は仕方なく越中国に帰ります。二度にわたる成政の敵対を許せなかった秀吉は天正13年(1585年)に10万の軍勢を率いて成政を完全包囲しました。
成政は信雄の仲介で二度目の降伏。命こそ奪われなかったものの、所領のほとんどを没収。妻子と共に大坂へ移住させられたのです。
