【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)と対立し非業の末路…戦国武将・佐々成政(白洲迅)の壮絶な生涯 (6/7ページ)
かくして大名としての政治生命を断たれたかに見えた成政ですが、天正15年(1587年)の九州征伐で武功を立てたことから、肥後国を丸ごと与えられました。
実に気前がいいですね。また裏切らないといいのですが……今度は裏切りませんでした。ただし成政は、ここでやらかしてしまいます。
秀吉は領民の反感を買わないよう、急激な改革や苛烈な統治を行わないよう指示しました。しかし病を得ていた成政は、死後の憂いを断っておきたかったのか、いきなり検地に着手したのです。
これが肥後領民の怒りを買い、隈部親永(くまべ ちかなが)ら国人衆の一斉蜂起(肥後国人一揆)を招いてしまいました。
一揆を自力で鎮圧できず、多大な犠牲を出してしまった成政は謝罪しても許されず、ついに切腹を命じられます。
このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり
※成政の辞世
【意訳】厄難と妄想をため込んだ鉄の鉢と袋≒自分の腹を、今こそ破ってすべてぶちまけてやろう。
成政は脇指で自分の腹を横一文字に切り裂き、手を突っ込んで内臓をつかみ出し、それを天井に投げつけました。
